Acetaminophen’s diary

化学に関すること,TeXに関すること,ゆきだるまに関すること。

「化合物の命名規則」再考 ―絶対立体配置の帰属―

今回は珍しく化学の記事。有機化学を学ぶ人でもおろそかにしがちな「命名規則」に関連した話題を取り上げようと思う。

 

「絶対立体配置」に関するケムステ記事の補足

10日ほど前にケムステに記事を投稿したところ、予想以上の反響があって、既に 4000PV を超えていて正直驚いている。小ネタ程度のつもりで書いたのだが、以外と「知らなかった!」という感想が多い。

いちばん多く見受けられた意見が

R/S の帰属は原子番号優先で、質量数(重さ)ではないなんて聞いてないよ!」

というもの。確かに、大学の講義で有機化学を学び始めて早い段階で命名法を取り扱うが、たいていは元素の同位体を扱わずに終わってしまうので、勘違いするのも無理はない。おそらくそういう理由で「炭素に結合している原子をみて重いものが優先」、極端な例では「置換基全体をみて重いものが優先」と考えているのかもしれない。

しかし、もう一度振り返ると Cahn-Ingold-Prelog 則は「中心炭素に結合した4つの原子を見て、その優先順位を決定する→決まらなければ各原子に結合している原子をみる→…」ことになっている*1。もし仮に知らなかったとしても、考えてみれば少なくとも自分を納得させるには十分な理由を思いつくことができるだろう*2

「置換基全体をみて重い順」でない理由

もし「置換基全体をみて重い順」なら、例えば下の(1)の時点でもうわからないのではないだろうか… a と b は全く同じ重さになっている。まして(2)なんて当たるはずがないだろう。この先こういう問題を数問出すので、わからなければ参考書に立ち戻って確認してほしい。

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置換基全体の重さなど、置換基中の側鎖の場所や順序を変えればいくらでも同じものができてしまい、第一大きくなればなるほど計算量が増えるだけではないか! そんなものは僕は計算したくないので、素直に「中心炭素に結合した4つの原子を比較して、1つずつ外へ外へと比較対象を広げる」という規則に従うのが妥当だと思う。

比較対象を広げるが先か、適用原則を広げるが先か

Cahn-Ingold-Prelog 則では R/S 判定にあたって置換基を比較する必要が生じるわけだが、この記事では便宜上

  • 「比較時に見るべき分子の範囲」のことを比較対象(要するに「中心炭素からどこまで離れたところまで眺めるか」)
  • 「比較時に持ち出す基準」を適用原則(具体的には「原子番号の大きい順」「質量数の大きい順」「置換基に E/Z があれば Z が優先」など)

と呼ぶこととする。ケムステ記事で「比較対象を広げる」ことと「適用原則を広げる」ことのどちらを優先すべきかで悩んだ読者もいるだろう*3。これは単純に「比較対象をどんどん広げていく方が、(多くの場合)覚えるべき原則の数が少なくて済むから」でもよいだろう。第一、大学の講義で「原子番号の大きい順」しか触れないにもかかわらず正解が導かれるという事実*4が、それを示唆しているといえなくもない。

原子番号と質量数のどちらを優先すべきか

さて、ここをクリアしても「原子番号と質量数のどちらが優先されるべきか」に悩む人もいるかもしれない。しかし、これも考えてみれば納得がいく。例えば(3)と(4)はどうだろうか(明示的に14Cと示した炭素原子を除いてすべて12C)。

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仮に「質量数優先」とすると、(3)は a と b について、まずNと14Cが質量数が等しいため順位がつかない。より外側の原子も質量数で比較するとすべて一致しており、「原子番号」の規則でようやく決定するという回りくどい結果である。(4)にいたっては「質量数優先」としてしまうと、直感的にもおかしな結果になることに気づくだろう。

他にも、例えば(5)と(6)はどうだろうか(明示的に14Cと示した炭素原子を除いてすべて12C;(5)で一つだけ12Cを明記したのは便宜上)。

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2つの化合物の違いは、(6)に放射性同位体である14Cが一つ存在するだけであり、化学的性質は全く同じである。仮に「中心炭素に結合した原子から順に比較して原子番号の大きい順」だとすると、2つの化合物は R/S が一致する。仮に「中心炭素に結合した原子から順に比較して重い順」だとすると、2つの化合物は R/S が異なることになる。

もちろん化学的性質は命名法に一切影響しないし、例えば酸素 O が硫黄 S に替わっただけで R/S の帰属が逆転する場合だってある*5。しかし同位体に関しては、(特別な処理を行わない限り)化合物中でも天然存在比に従った同位体が存在している。単一化合物の同位体を一分子ずつ取り上げて R/S を判定したときに RS が混ざっていると考えるのは、あまりにも不自然であろう。

というわけで、一応これで「まず原子番号を比べる→次に質量数を比べる」という優先順位が納得できただろう。

というわけで…

以上で、若干強引ではあるが少なくとも自分を納得させるには十分な理由づけを得られただろう。繰り返しになるが、これが化学的に正しいか(=今回の場合は命名法の作者の意図に則っているか)は度外視していることに注意されたい。

以下に今回の知見をまとめる:

  1. 中心炭素に結合した4つの原子の原子番号を比較する。
  2. 決まらなければ、1つ外側に目を向けて同様に比較する。以下、外へ外へと比較対象を広げて末端まで比較する。
  3. どうしても決まらなければ再び中心炭素に結合した4つの原子に立ち戻り、今度は質量数を比較する。
  4. 決まらなければ、外へ外へと比較対象を広げていく。
  5. どうしても決まらなければ再び中心炭素に結合した4つの原子に立ち戻り、今度は…

という感じだ。次の原則はあえて書けば「置換基に E/Z があれば Z が優先」のように続いていくが、これ以上は必要に応じて原則の内容を調べていけば済む話であるので割愛する。この記事が何かの理解の助けになれば幸いである。

最後に、問題の解答。なんとみんな R で、置換基の優先順位はアルファベット順である(すべて時計回り;右回り)。ちなみに、R/SE/Z の記号はイタリックで書くのが決まり。意外と知らない人も多いのでは?

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*1:これはアルケンの E/Z 命名法でも同じであり、「二重結合をもつ炭素原子に結合している2つの原子を比較して…」で始まる。

*2:この記事では「化学的に正しいか」(=規則を作った人の意図に沿っているか)はさておき、僕自身が命名法を覚えるにあたって自分を納得させた理由をまとめている。一度考えてみなければ、こんなものはすぐに忘れてしまうだろうと思ったからである。

*3:表現が分かりにくいだろうか。言いたいのは

  • 中心炭素に結合した原子から始め、「原子番号の原則」に従って徐々に外側へ向かって分子の端々まで比較し、決まらなければ「質量数の原則」に従って分子の端々まで比較し、…(=「比較対象を広げる」優先)
  • 中心炭素に結合した原子から始め、その場で「原子番号の原則」「質量数の原則」を順に適用しつつ比較し、決まらなければ一つ外側の原子に移動してその場で同様に比較し、…(=「適用原則を広げる」優先)

のどちらが正しいかを論じたいのである。

*4:そして、これは(しばしば「重い順」ではないかという誤解を招くとはいえ)ウソは教えていない!

*5:不斉炭素を持つ天然アミノ酸(=グリシン以外;すべて L 型)のうちシステインだけが R の絶対立体配置(残りは全て S になる)となることは良く知られている。