Acetaminophen’s diary

化学に関すること,TeXに関すること,ゆきだるまに関すること。

タンパク精製と特殊組版の「牛耕式」

タイトルからはどんな記事なのか想像がつかないはずなので、まずはタンパク質の例を一つ。見覚えのある方もいるだろう。

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この図を見て何のタンパク質かすぐに分かったとすれば、おそらく本当に「分子モーター」に関連する研究分野の方であろう。発表スライド自体に見覚えのある方は、確実にアレの参加者のはず。もちろん右の画像は ATP 合成・加水分解酵素であり、非常に簡単な補足説明は以前の記事参照。

さて、今日はブログを始めて以来初めて、僕が所属している研究室での卒論研究が関係してくる。とはいっても、研究内容そのものをこの場で述べることはできないので、一般論としての

生化学的分析に頻出の「タンパク質精製」

について簡単に紹介しようという目的である。なぜ組版? というのはすべて僕のこのツイートに集約される:

これで意味が分かった方は、もう以下の記事の説明は必要ないだろう。おそらく大半の方は何を言っているのか分からないはずなので、以下で解説しようと思う。

 

タンパク質の生産法の基礎

以下では、非常に簡単ではあるが*1、タンパク質の精製とはいかなるものか説明する。

生物におけるタンパク質合成

上に示した「ATP 合成酵素」などの多くの酵素はタンパク質である。もちろん ATP 合成酵素はもちろん天然に存在するタンパク質であるが、これを大量に手に入れたい場合、どうするか? 一つの生物の体内に存在する特定のタンパク質の量は非常に少ないので、大量に手に入れるためには相当量の生物を持ってこなければならず、非現実的である。

そこで登場するのが、遺伝子組み換えの技術である。増殖するスピードが非常に早い大腸菌に「目的のタンパク質を作る DNA」を取り込ませる*2。すると、組み換え大腸菌の中には

  • 大腸菌自体を作り出す遺伝子の DNA
  • 人工的に取り込ませた目的タンパク質を作る DNA

の両方が存在することになる。大腸菌が成長して分裂するときにはこの両方が複製されるので、ありがたいことに「大腸菌の数が増えると同時に、目的のタンパク質も大腸菌が生産してくれる」のである。こうして、必要なタンパク質を簡単に大量に得ることができるようになった*3だけでなく、遺伝子の配列さえ工夫すれば「天然には存在しないが、より人類にとって便利なタンパク質」を作り出すことも可能になったわけである。

もちろんタンパク質は有機分子であるので、相当努力すれば1つ1つアミノ酸有機合成的につなげていくことは可能かもしれない。しかし、正確にかつ効率よく複雑なタンパク質を生産することに関しては、まだ有機合成大腸菌をはじめとする生物のレベルには達していない*4

タンパク質の精製

いよいよ本題。大腸菌でタンパク質をつくると、当然ながらいろいろなタンパク質が混ざった状態で得られる。というのも、大腸菌それ自体に含まれる種々のタンパク質が大量に存在し、目的のタンパク質はその中の一部に過ぎないからである。そこで、混合物の中から必要なタンパク質だけを分離するという操作が必要になる*5。これがタンパク質の精製である。

精製操作にも多くの段階があるが、その一つの段階として HPLC と呼ばれる方法がある。HPLC は日本語で「高速液体クロマトグラフィー」と訳され、ポンプで圧力をかけてタンパク質などのサンプル溶液をカラムに流すことにより、効率よく混合物を分離する方法である。

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(図は 基礎・技術情報 |ナカライテスク より一部改変)

今回使っている分離方式はゲル濾過クロマトグラフィ(サイズ排除クロマトグラフィとも)と呼ばれる方法である。筒状のカラムの中にはゲル粒子が充填されていて、それぞれのゲル粒子には細かい孔があいている。タンパク質の混合溶液がカラムの中を流れると、小さいタンパク質分子は孔の中によく入り込むためなかなか出てこられずにゆっくりと進み、大きなタンパク質分子は孔の中に入り込まずにさっさと早く流れるという現象が起こる。結果的にタンパク質がカラムを完全に通過し終える順序は“大きい順”になるので、流れ出てきた溶液を時間順に分取するだけで、タンパク質は大きさに従って分離されているはずである(動画は GE Healthcare のもの)。


Principles of Gel filtration chromatography - YouTube

HPLC組版との関連

なぜここで組版というタイトルがついているか、ようやく明らかになる。どういうことかというと、この HPLC 装置、早く流れ出たものから順に溶液を取り分けるフラクションコレクターという部品(上図では記録計として一体化している)がついているのだが、これが牛耕式に見えるというのである。

タンパク質の混合サンプルを溶媒と同時に流す*6と、タンパク質は大きい順に分かれて流出してくるはずである。そこで、例えば装置の設定として「出てきた溶液を何mLずつ分取する」のように決めたとする。すると

  1. 実際にタンパク質が含まれるかどうかにかかわらず、まず1本目の試験管に、決められた体積に達するまでの溶液を吐きだす。
  2. 体積が設定値に達した時点で2本目に移動して、溶液を吐きだす。
  3. 再び達すると3本目に…

と繰り返す。こうすることで「もしタンパク質が入っているとすれば、1本目の試験管に含まれるタンパク質は比較的大きく、そこから2本目、3本目、…と徐々に小さくなっていく」ことが期待できる。タンパク質がどこにどれくらい入っているかは検出器によって記録されているので、必要なタンパク質が含まれる試験管だけを選ぶことができる。

回収用の試験管は50本ほど立てることもあり、次から次へと試験管を移動する機構にはムダのない動きが求められる。そこで実際に市販の HPLC 装置に使われている方式の一つが「牛耕式」といえるものである。百聞は一見に如かずで、実物がこちら:

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牛耕式 (Boustrophedon) については昨日サブブログに書いたので、そちらを参照。簡単に書くと「一行ごとに左から右 (LTR) と右から左 (RTL) を交互に繰り返し、耕す牛のように行ったり来たりする筆記法」である。

ほかにも僕の研究室には、フラクションコレクターが「渦巻き状」になっている HPLC もある(個人的には「ファイストス円盤状」と呼びたい):

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ちなみに、ファイストスの円盤 (Phaistos Disc) とはクレタ島の宮殿で発見された粘土板で、書かれている文字は未だに完全には解読されていない。昨年一部だけ解読されたというニュースが報道されたことで記憶に新しい。

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解読はされていないが、既にこれらの文字は Unicode の 101D0–101FF に収録されていて、例えば Symbola というフォントを使えば印字できる。

そもそも、なぜ突然牛耕式が話題になったかというと、TATEditor というフリーソフトのバージョンアップが発端である。今度は Phaistos Disc モードの組版が可能になればなあ(笑)

 

というわけで、生化学の記事だと思って読んでいた方にとってはだんだん脱線が激しくなっていくというネタ記事は以上。おまけはこちら

参考になる書籍

相当簡単な説明にとどめたので、参考文献をいくつかあげておく:

生物学の参考書(一般向け)
カラー図解 アメリカ版 大学生物学の教科書 第2巻 分子遺伝学 (ブルーバックス)

カラー図解 アメリカ版 大学生物学の教科書 第2巻 分子遺伝学 (ブルーバックス)

  • 作者: デイヴィッド・サダヴァ,クレイグ.H・ヘラー,ゴードン.H・オーリアンズ,ウィリアム.K・パーヴィス,デイヴィッド.M・ヒリス,石崎泰樹,丸山敬,浅井将,吉河歩
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2010/05/21
  • メディア: 新書
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ブルーバックスなら比較的に手に取りやすい? これは Life: The Science of Biology という生物学の教科書の抄訳で、サイズ的にも価格的にもお手頃。

生物学の参考書(専門向け)
Molecular Biology of the Cell

Molecular Biology of the Cell

  • 作者: Bruce Alberts,Alexander Johnson,Julian Lewis,David Morgan,Martin Raff,Keith Roberts,Peter Walter
  • 出版社/メーカー: Garland Science
  • 発売日: 2015/01/12
  • メディア: ペーパーバック
  • この商品を含むブログを見る

現時点では日本語訳は第5版しか出ていないが、近いうちに第6版も出るはず。

Physical Biology of the Cell

Physical Biology of the Cell

  • 作者: Rob Phillips,Jane Kondev,Julie Theriot,Hernan Garcia
  • 出版社/メーカー: Garland Science
  • 発売日: 2012/11/21
  • メディア: ペーパーバック
  • この商品を含むブログを見る

こちらは分子モーターなどの話がより詳しい。日本語訳は初版に対応。

遺伝子工学の参考書(専門向け)
遺伝子工学: 基礎から応用まで

遺伝子工学: 基礎から応用まで

遺伝子工学の基本的な考え方から種々の技法までが一冊にまとまった良書。

分析化学の参考書(専門向け)
分析化学〈1〉 (基礎化学コース)

分析化学〈1〉 (基礎化学コース)

クリスチャン分析化学〈2〉機器分析編

クリスチャン分析化学〈2〉機器分析編

普通に授業で使った教科書。分析化学の日本語の教科書は今でも非常に少なく、より良い本がないか探しているところ。

*1:誤りのない程度に相当簡略化しているので、専門の方はご了承ください…

*2:タンパク質はアミノ酸が多数連なってできている。生物がタンパク質を作るときに最初に設計図として参照するのが DNA という分子で、アミノ酸の順序は DNA 分子中の塩基配列から「暗号解読」によって決定される。

*3:以前の「ヒカリ展」の記事で少しだけ紹介した「蛍光タンパク質」もこの方法で生産した。

*4:しかも、タンパク質はアミノ酸の順序だけでなく「適切な折り畳まれ方」になることで初めて機能するが、これを人工的に制御するのも難しい。

*5:もちろん天然に存在するタンパク質を取ってくる場合も、さまざまな物質の混合物から必要なものだけを分離する作業は必要である。

*6:上図の左方を見ればわかるとおり、サンプルであるタンパク質溶液を注入する装置の背後には“何も含まれない溶媒”を流すための設備がある。溶媒も流さなければ、カラムの中でゆっくり進んでいるタンパク質を前に進めることはできないので当然である。